自閉症イナーシャ:いちばん難しいのは「始めること」
自閉症イナーシャは、始める・やめる・切り替えることの難しさで、怠けではありません。どんな感覚なのか、どんな小さな「助走」が役立つのかを紹介します。
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気のせいではありません
返信しなければいけないメールがある。返信したい気持ちもある。それなのに1時間座ったまま、何も進まない。あとになって誰かに「どうしてさっさと片づけないの?」と聞かれてしまう。
そんな経験に覚えがあるなら、それは自閉症イナーシャ(autistic inertia、自閉的な慣性)かもしれません。自閉スペクトラム症の人たちが、いまいる状態から抜け出せなくなる経験を指して使っている言葉です。怠けとは違い、実行機能の困難ともまったく同じではありません。ちょっとした実践的な「助走」が助けになり、バーンアウトともつながりがあります。エネルギー不足と睡眠の関係については、意志の力に頼らない睡眠のデザインもご覧ください。
自閉症イナーシャとは?
自閉症イナーシャは、「ひとつの状態を保とうとする傾向」を表す言葉です。行動を始めること、やめること、作業を切り替えることの難しさを含みます。名前の由来はニュートンの第一法則です。止まっている物体は止まったまま、動いている物体は動いたままで、何かが働きかけないかぎり変わらない、という法則です。
実際には、主に次の3つの形で現れます。
- 始める:始めたいのに、なかなか始まらない。ある研究に参加した自閉スペクトラム症のルースさんは、「いったん動き出せば大丈夫。でも、動き出すまでにすごく時間がかかることがある」と話しています。
- やめる:一度没頭すると、やめる必要があっても離れるのが難しい。自閉スペクトラム症の作家マックスフィールド・スパロウさんは、論文のための調べものを始めると「調べるのをやめて書き始めるのがなかなかできない」と書いています。
- 切り替える:次の作業に移るには、まずいまの作業をやめなければなりません。それ自体が、頭の中での大きな切り替えになります。
発話のイナーシャを語る人もいます。言葉ははっきり頭に浮かんでいるのに声に出せず、それでもタイピングならできる、という状態です。 スパロウさんはこう表現しています。「出したい音のことは考えられる……でも、体に話させることができない」。
どんな感じがするの?
32人(23〜64歳)を対象にした質的研究で、自閉スペクトラム症の大人たちは意図と行動が切り離されている感覚を語りました。動きたいのに、体がまったく動かないように感じるのです。ある参加者は「自分のイナーシャには勝てない。消えるのを待つしかない」と話しています。
重さは日によって予測できないほど変わります。そのため、いつも同じようにこなせるとは約束できません。周りの人にはこれがなかなか理解されない、と当事者たちは語っています。 自閉スペクトラム症の人たちによれば、いくつかの要素が絡み合っています。実行機能の困難、エネルギーの低さ、感覚的な苦手さ(たとえばシャワーに入るときや出るとき)、そして体の内側のサインを感じとる感覚(内受容感覚)とのつながりの弱さです。
悪い面ばかりではありません。何度も無理に切り替えるより、没頭したままでいるほうを好む人もいます。作業に深く入り込むことは生産的で、喜びの源にもなります。
なぜ起こるの?
しくみはまだよくわかっていません。Psychological Science誌のObserverに掲載された学生による解説によると、実行機能の違いのために、動き出すのに必要な信号を脳がいつも送れるとは限りません。それは「山の上へ岩を押し上げる」ようなものだといいます。やる気の問題ではなく神経学的な違いだ、というのがこの解説の見方です。
同じ解説は、イナーシャを悪化させうるものとして次を挙げています。
- まぶしい光や大きな音などによる感覚過負荷。
- 運動の制御の難しさ。
- 不安やうつを含む感情調整の難しさ。
- 不安から生まれる回避のループ。外からは、やる気がないように見えることがあります。
32人を対象にした研究では、24人(75%)が不安症、20人(62.5%)がうつ病の診断を受けていると答えました。イナーシャは、日常生活の中心となる部分にまで影響していました。
- 不安症
- 75%
- うつ病
- 62.5%
怠けなの?ほかのものとの違い
自閉スペクトラム症の人たちは、本気で始めるつもりがあり、強く望んでもいるのに、それが「ほとんど不可能」だと語ります。 この難しさは自分の意思とは関係なく、予測もできないもので、性格の欠点ではありません。始める、やめる、切り替えるといったことに、不釣り合いなほどの労力がかかることがあります。
イナーシャと実行機能の困難は重なり合いますが、同じものではありません。どちらも作業を始めにくいという形で現れることがあります。ただ、実行機能がスキルの集まりを指すのに対し、自閉症イナーシャは動けなくなるという実感そのものを表しています。
先延ばしとも別のものです。イナーシャとバーンアウトを結びつけている資料によれば、疲れ果てることとイナーシャが深まることが互いを強め合う悪循環こそが、単なる努力不足や先延ばしとの違いだといいます。
役立つこと:意志の力より「助走」を
自閉スペクトラム症の人たちは「外からの力」が必要だと語ります。心の中で自分を励ましても、イナーシャには確実には効かないといいます。 サポートがいちばん効果を発揮するのは、やる気を高めようとするときではなく、状態を切り替えるための負担を軽くするときです。中心になるのは、足場づくり、見通しの立てやすさ、感覚のニーズへの配慮、そして一緒に問題を解決することです。
1. 始めるための助走をつくる
ごく小さな行動をひとつ選び、あえてそこでやめておきます。たとえば、歯ブラシに歯みがき粉をつけるだけ。次にやることがひと目でわかるように環境を整えておくのも効果的です。服を出しておく、文書を開いておく、といった具合です。音楽をかける、やかんのお湯が沸くなど、すでに起きていることと組み合わせて始め、その勢いを借りる方法もあります。 自閉スペクトラム症の人たちが設計したアプリTiimoは、この考え方を「いったん動き始めれば、勢いはたいていあとからついてくる」と表現しています。
2. やめるための助走をつくる
「セーブポイント」をつくりましょう。どこでやめたのか、次に何をするのかを1行でメモしておくのです。3分で切り上げると決めてから、タブを閉じ、立ち上がって水を飲む、といったカウントダウンの儀式も使えます。再開する時間をあらかじめ決めておけば、やめることへの不安も小さくなります。
3. 切り替えるための助走をつくる
作業と作業のあいだに2〜10分の余白をとりましょう。文書を保存してから次のタブを開く、というように、ふたつの作業をつなぐ「橋渡しの作業」をはさむ方法もあります。似た作業をまとめて行えば、切り替えの回数そのものを減らせます。
4. 動けないときは3ステップのリセットを
3ステップのリセット
- 障壁をひとつ取り除いて、ハードルを下げる。
- 一歩を小さくして、30〜120秒でできる行動にする。
- タイマー、音楽を変える、確認のメッセージなど、合図を加える。
5. ほかの人の力を借りる
ボディダブリング(対面やビデオ通話で、誰かと並んで作業すること)は、始めるのに必要なエネルギーを減らしてくれます。信頼できる人に声をかけてもらうことや、必要なものを通り道に置いておくことも役立ちます。 アラームやカレンダーだけに頼るより、人からの実際的な手助けのほうがうまくいくことがよくあります。
6. 切り替えを目に見えるようにし、空間を落ち着かせる
Time Timer MODは、残り時間を小さくなっていく色つきの円で示してくれるので、切り替えが不意打ちになりません。 静かな場所、やわらかな照明、少ない騒音も集中を助けます。自分の関心につながる作業なら、個人的な意味のない作業よりはるかに取りかかりやすくなります。
職場や学校では
バーンアウトや睡眠とはどう関係するの?
研究者たちによると、イナーシャとバーンアウトには双方向の関係があります。疲れ果てることとバーンアウトが悪循環を生み、イナーシャを深めていくのです。 自閉スペクトラム症の人たちが設計したアプリのガイドは、いつもより動けなくなるのはバーンアウトの警告サインかもしれず、必要なのはもっと頑張ることではなく、休息と感覚の調整だと指摘しています。 その状態がどんなものか、人がどのように回復していくのかは、働く大人の自閉症バーンアウトの記事で紹介しています。
助けを求めたほうがいいとき
動けない状態が日常生活を覆うようになったときや、疲れとともに強まっていると感じるときは、誰かに相談してみる価値があります。自閉スペクトラム症についての訓練を受けた作業療法士は、感覚統合の技法や実生活での練習を使いながら、作業の始め方や切り替え方について一人ひとりに合った方法を一緒に考えてくれます。実行機能のコーチは、脳の特性に逆らうのではなく、特性に合ったしくみづくりを手伝ってくれます。
こうした難しさを道徳的な欠点ではなく、自閉スペクトラム症であることの一部として受け止めると、自分にやさしくなれ、恥の気持ちも和らぎます。
まとめ
自閉症イナーシャは、始めること、やめること、切り替えることの難しさです。自閉スペクトラム症の人たちはこれを、やりたい気持ちが足りないのではなく、やりたい気持ちと実際の行動のあいだにある溝として語ります。怠けとは別のもので、実行機能の困難と重なり合い、バーンアウトとは互いに強め合うことがあります。役立つのは、もっと強く自分を励ますことではなく、より小さな最初の一歩、目に見える切り替え、きっかけになる合図、そしてそばにいてくれる誰かです。
参考になる情報
- 自閉症イナーシャ:その瞬間に取り残されて(Reframing Autism)(新しいタブで開きます)
自閉スペクトラム症の書き手による体験談。
自閉スペクトラム症の当事者が主導
- 自閉症イナーシャ:概要(Unstrange Mind)(新しいタブで開きます)
スパロウ・ローズ・ジョーンズさんが、イナーシャとともに生きることについて書いた記事。
自閉スペクトラム症の当事者が主導
- 自閉症イナーシャが生産性に与える影響(Tiimo)(新しいタブで開きます)
自閉スペクトラム症の人たちが設計したアプリによるガイド。
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出典 (9)
- Cognito Research, Psychology (2021). No Way Out Except From External Intervention: First-Hand Accounts of Autistic Inertia. Frontiers in Psychology.
- Psychological Science. Student Notebook: The Physics of Autistic Inertia. Observer.
- British Psychological Society. Executive functioning in autism and ADHD.
- Alex (2020s). Autistic Inertia: Stranded in the Moment. Reframing Autism.
- Thinking Person's Guide to Autism (2016). Autistic Inertia: An Overview.
- Life Skills Advocate. Autistic Inertia: How To Get Unstuck When 'Try Harder' Backfires.
- The Autistic Coach. Navigating Executive Function & Autistic Inertia in a Neuroaffirming Way.
- Tiimo App. How Autistic Inertia Affects Productivity.
- Sparrow Rose Jones. Autistic Inertia: An Overview. Unstrange Mind.


